クラフテッドWorldへようこそ

このコーナーは自転車に関するさまざまな事柄を、いろんな角度からお話するページです。
皆様にとって、役立つ事から、全く役にたたない事までさまざまです。
その内容によっては、読者の皆様の中で批判、反論をお持ちになられる方もおられるでしょうが、ご容赦下さい。あくまでも私からの一方通行のお話ですので。


第6話 「種子島と鉄砲と自転車」

1543年 種子島に初めて鉄砲が伝来。それと自転車と、どういう関係があるのかと言うお話です。
当時の日本には「ネジ」、「ボルト、ナット」という発想も概念もありませんでした。それまで物と物を接合する手段としては「釘」「かすがい」「“にかわ”」などに代表される接着剤」「木と木を組み合わせて嵌めあわす寄木、組み木などの手法」などがありました。そこにねじこんで物を固定、接合するという新しい方法が「鉄砲」という武器と共に伝来したのです。鉄砲には「ネジ」が使われていたわけです。この時代から現代まで、私達は「ネジ」によって多大な恩恵を被り、自転車に限ってみても「ネジ」の使われている個所やパーツ、は数え切れないほどで、ネジ無しには自転車が組みあがらないほどです。

当時、日本は戦国時代、新しい武器は手先の器用な日本人によって量産されるようになります。でも、一番手を焼いたのがこのネジの製作でした。雄ネジは鉄の棒に糸を巻いてそれに沿ってヤスリで溝をつけていったり、三角形の紙を鉄棒に巻いてその紙の端に沿って溝を刻むことによってなんとか製作したらしいです。一番手を焼いたのは雌ネジだったようです。これは出来上がった雄ネジに土粘土などを巻いて、型をとって溶けた鉄を流し込んで鋳造したらしいです。

次に製作が難しかったのが、鉄砲の砲身だったそうです。当時、長い穴のあいた鉄パイプも相当「ハイテク」が必要だったようです。砲身の製作は大阪の堺、近江(滋賀県)地方が最大拠点だったということです。都(京都)に近く、海運、外国貿易に地の利があるこの地方が選ばれたのは自然な事だったのでしょう。
この時期をきっかけとして、大阪の堺は鉄砲の砲身つまり鉄パイプの重要な生産拠点となり、近代に入っても薄肉鉄パイプの生産が盛んな地方となったのです。
賢明な皆様はもうすでにお気づきのように、この薄肉鉄パイプは自転車のフレーム材としても最適でしたので、必然的にこの地方に自転車産業が発展していきます。フレーム製造メーカーができれば、近隣に部品メーカーが出来、さらにそれらの下請けとなる鉄工所などが多数誕生して行くわけです。現在も自転車や部品メーカーの大部分がこの地方にかたまっているのもそういう理由からです。
もし、「織田 信長」がいなかったら日本の自転車メーカーの一大拠点は「甲斐の国」?それとも「越後」か、さてまた「三河」か?






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