サンツアーストーリー
第1話 「サンツアーシュパーブの変遷」
サンツアー 最上級レーシングコンポ「シュパーブ プロ」は誕生後、マイナーチェンジ、モデルチェンジを繰り返しライバルメーカーのシマノ、カンパと共に一つの時代を「3大変速機メーカー」の一員として、君臨しました。
「シュパーブ プロ」シリーズはその製品内容と生産時期から大別して三つの時代に分けられると思います。以下の時代区分を頭に入れておいて頂くと、今後お話する内容も少し面白みが増すと思います。
(最初は70年代終わりの初期の時代)
この時期はサンツアーの独自のオリジナル製品は「前後変速機」「フリーホイール」「シフトレバー」くらいのものでした。残りの製品群は他社の製品の名前だけを変えて、シリーズ化したものでした。当時のサンツアー(マエダ工業)には全部自社で開発、生産できるだけの能力がありませんでした。しかし、理由はそれだけではありませんでした。自転車業界はいろんな部品メーカーがそれぞれ独立した会社が多く、ほとんど完全な分業型の産業構造をしていた為、そのあたりで、各メーカーからの反発を警戒、懐柔する意味もあったのです。
例えば、ギヤクランクはスギノ鉄工所(現 スギノテクノ)、ヘッドセットは八田製作所、ハブは三信松本製作所、ブレーキは吉貝機械金属(ダイア コンペ)、ペダルは三ヶ島製作所という具合です。
(80年代前半の総合コンポーネントメーカーへの挑戦)
この時期に入ると、ライバルメーカーとの競争も激しさを増してきて、いわゆる「間借り商品」ではたちうちしにくくなってきます。上記の「間借り商品」を少しずつオリジナルに変更していく時代です。
新たにオリジナルとなっていったのは、ハブ、ペダル、ギヤクランク、ヘッドセット、シートピラー、チェーンなどです。
(80年代中、後期の最終型へ)
最後に残ったオリジナルのブレーキの開発で、シュパーブの開発物語はほぼ終了します。
事情があって、私は86年に退社して郷里の福井へ戻ります。
この後90年代にはいると サンツアーはまるで開発競争に疲れきったかのように、急速に元気をなくし、やがて、ろうそくが燃え尽きるように静かに消えていきます。この後しばらく「サンツアー」というブランド名だけが、まるで「生霊」のように巷や業界をさまよいます。